特集

テロリストの 更生

社会的・文化的なアプローチによってインドネシアのテロリストに与えられた更生の機会

2002 年にバリ島で起こった爆弾テロ事件は、私の人生の転機となった。

当時私はワシントンポスト紙の特派員で、200 人以上が殺害されたその爆弾テロの取材も担当していた。ほどなく警察の記者会見によって、私は、犯人の一人がイスラム寄宿学校時代の知人、ファドラッラー・ハッサン(Fadlullah Hasan)である事を知った。1980 年代の初め、インドネシアのジャワ州ソロで私は彼と6年間ルームメイトだった。 

それからというもの、ハッサンのように賢明で穏やかで、かつ礼儀正しい人物が、なぜテロリズムに関与したのだろうという思いは、個人的な疑問となって私の中に居座り続けた。この疑問を追求せずにいられなかった私は、インドネシアの刑事司法によって有罪判決を受けた何百人ものテロリストにインタビューし、時には、1998 年のスハルト政権崩壊後の共同紛争に巻き込まれたアンボンとポソにある軍事キャンプも訪問した。 

また、2005 年から 2006 年には、テロリズムに対するより包括的な理解を深める目的で、スコットランドのセントアンドリュース大学で国際安全保障に関する修士号を取得するために、英国の Chevening 奨学金も申請した。また北アイルランド紛争について知るために、現地に出向いて調査も行った。そしてその調査中、元テロリストを社会に復帰させようとしていた地元の NGO と出会い、ひらめきを得たのだ。このNGO がやっていることを自分の国でもできないはずはないと確信した。 

インドネシアの中部ジャカルタで、小さな反テロ集会を開きプラカードを掲げる小学生たち。ロイター

そのような個人的な探求と、インドネシアの過激派グループへのアクセスを可能にする歴史的つながりによって、2008 年、私はヤヤサンプラサスティペルダマイアン(Yayasan Prasasti Perdamaian:YPP)として知られる国際平和構築研究所の設立に運命的に導かれた。YPP を通じて、私は元有罪判決を受けたテロリスト、や 「フォーマーズ(Formers)」とも呼ばれる元テロリストを社会に復帰させるための支援をするため、議論の種となる社会介入に着手した。 

生まれながらのテロリストはいない 

YPP の核心にある考えは、まず、生まれながらのテロリストというのは居ないという点だ。人がテロリストになる過程には、政治的、経済的、また家庭内での不満、仲間うちでおこる重圧の深刻
さ、さらに特定の多世代的な家族の役割の問題など、複数の要素が絡んでいる。 

逮捕されたテロリストの中には、結果的に釈放され、社会に戻る人もいる。社会は、そんな彼らとどう向き合えばよいのか?彼らを刑務所に監禁し、鍵を捨ててしまえばそれで解決だろうか? あるいは、彼らがまた地域社会の一員として受け入れられるように、彼らを更生させる事に尽力すべきだろうか? 

2013 年の政策分析委員会の報告書によると、インドネシアの司法制度においては、元テロリストの更生を支援するための資金やインフラ、資源が不足しているという。釈放後のケアも不十分な ため、テロリストたちはまともな評価を受けられず、結局また暴力事件を起こすというリスクがある。元テロリストたちは、主流社会に戻るための十分な更生プログラムを受けていないのだ。 

過ちを許し、柔軟な対応を 

テロリストに更生の機会を与え、新たな生活をスタートさせるのは、特に私のようなごく普通の市民にとっては容易な事ではない。私もいくつかの難題に直面した。またテロ被害者やその家族など、直接的にテロの苦痛を味わった人たちは、加害者のリハビリテーションに異論を唱えたり、怒りをあらわにする事さえある。 

テロはまた、インドネシアにおける最大の死因ではない。世界保健機関 (WHO) の世界保健機関(WHO) によると、インドネシアにおける大きな死因は、脳卒中、虚血性心疾患、糖尿病などで
ある。つまり、テロリストの攻撃で殺されるより、ドーナツを食べ過ぎたり、炭酸飲料を飲んだりすることでより多くのインドネシア人が死の危険に晒されている。 

こういった理由から、インドネシアにおけるテロは、イスラムを追い込むための西側の体系的な戦略として、イスラム教徒コミュニティの特異的な一部分として片付けられることが多い。またその一方、国民は依然として、テロは政府が解決すべき問題だと考えている。  

テロリストの社会生活

私の最初のクライアントはファリヒン・カンダイ(Farihin Kandai)である。彼は、1980 年代半ばにウサマ・ビンラディンと共に戦った、アフガニスタン帰還兵である。彼は 1990 年代初頭にインドネシア
に戻って来た。2002 年、ワシントンポスト紙の仕事を通じて、私はファリヒンと知り合った。彼の妻が私が通っていたソロ市にあるアル・ムクミン寄宿学校卒業生であると知り、私たちはすぐに打ち解けた。 

ファリヒンにインタビューした際、彼が、後にアルカイダに加わることになる西ジャワのアフガニスタン帰還兵であるハンバリと友人関係で、国内のテロ活動に関与した事を知った。 

刑務所を出た後、ファリヒンは中部スラウェシ州にあるカカオ農場の経営を始め、私も彼の新生活の手助けをした。彼はほとんど農場に来なかったため、事業は失敗した。彼には二人目の妻がいて、新しい妻と最初の妻の間を行き来するのにかなりの時間を割かなければならず、そのため多忙だった。この新しい生活が、彼を再びテロの世界に戻すことを防いだのだと思う。 

多くのイスラム過激派が通っているアル・ムクミン寄宿学校の近くあるイスラム系書店で立ち読みをするインドネシアの女性。ロイター

私はこの経験から重要な教訓を学んだ。テロに関与する多くのインドネシア人にとって、テロは「アルバイト」のようなものだということだ。彼らは戦いに従事しつつも、一方で社会生活を送っている。一部では、ファリヒンのように二人目の妻を迎えるだけの時間とエネルギーを持つ者もいる。 

これには私も考えさせられた。想像してみてほしい。もし彼らが、(複数の妻を持つ以外にも)何かテロ以外の有意義な活動に時間を費やす事ができれば、テロリストとしての道を追求することには興味を失っていくのではないか。 

ファリヒンと色々な話をする間に、彼はたとえばジェマ・イスラミア(Jemaah Islamiyah:JI)のような過激派組織での生活がどんな風か教えてくれた。

「”テロリスト”グループのメンバーで居る事は刺激的だったよ」とファリヒンは述べた。「私は一個人としてではなく、自分よりはるかに偉大な”アル・カイダ”の一部として生きていると感じていた。ハンバリ(Hambali)はいつも、世界の堕落した世俗制度を変えよう、と言っていたんだ」 

そう語る彼の様子は自信と権威に満ちていた。実際、私がインタビューしたテロリストの多くも、彼と同じことを口にした。彼らはたいてい自分たちの事を、自身より大きく、曖昧で、イデオロギー的に構築された国境を越えるスケールの共同体と認識していていて、その偉大な共同体を代表してテロ行為を行うのだと感じている。 

1980 年代のアフガニスタン帰還兵というある種の栄誉を持つ彼は、テロ組織ジェマー・イスラミ(JI)のコミュニティで尊敬すべき存在とされた。 

ファリヒンのようなジハードを戦った英雄たちの物語は、ジハードサブカルチャーの重要なプロパガンダツールである。過激派組織は、大袈裟な作り話や武勇伝をグローバルメディアとテクノロジーを使って流通し、過激な行動を奨励し、賛美し、支持するための広報として使用する。 

ファリヒンの物語は特に大きな意味があった。彼は著名なジハード一家の出身だったからだ。そのような家に生まれたおかげで、自然に彼は 1980年代のアフガニスタンでの軍事訓練に参加することになった。

インドネシア中央ジャワ、ソロ市にあるレストランで働く、「ユスフ・アディラマ(Yusuf Adirama)」の異名でも知られるマフムディ・ハリョーノ(Mahmudi Haryono)。ハリョーノは、元ジハード主義者が 社会の生産的な一員に復帰する方法を示す代表的な例である。AP通信

ファリヒンは、自分の叔父が 1950 年代のインドネシアの初代大統領の殺害に関与していたと言った。また彼の弟たちのほとんどは、1990 年代後半のジャカルタのフィリピン大使公邸での爆弾テロ、2000 年代のアトリウムモール爆破や中央スラウェシの共同紛争での教会焼き討ちなど、いくつかのインドネシア国内で起こったテロに関与していた。つまり、テロリズムはファリヒンの家業と言ってもいい。 

救いがあるとすれば、ファリヒンによると、テロリストとして生きることはタフな割に地味であるという。常に戦闘のための準備が求められるような生活は、ファリヒンのような、経済的な安定を得て新しい家族を築きたいと考えている 50 代の男にとって魅力的とは言い難い。言うならば、歳をとることで、ファリヒンの人生の優先順位は変化し始めたのだ。それでもイスラムを守るという彼の情熱と願望は、決して消えることはなかった。

「ムジャヒッド(mujahid)[イスラムの戦士]であることは、私のアイデンティティの中心だよ」とファリヒンは言う。 

そのため、2014 年半ばにジャカルタ中部のメンテンのモスクに若い男のグループが集まり、イスラム国(ISIS)の指導者であるアブー・バクル・アル=バグダーディー(Abu Bakr al-Baghdadi)のカリフ制宣言を支持したことについて、ファリヒンは怒りをあらわにした。ジャカルタの米国大使館の目と鼻の先にあるそのモスクで、 

2015 年の初め、私は彼の横に座り、なぜアル=バグダーディのカリフとしてのプロジェクトを支援しないのかを尋ねた。

ファリヒンによると、アル=バグダーディを支持する人々は、すべてのイスラム教徒がカリフとしての彼に忠誠を捧げ、ヒジュラ(hijra)(移住)を実行してその領土を守り、他の伝統的イスラム諸国全体に支配を拡大するべきだと主張しているそうだ。 

インドネシア・北スマトラのセイメンシリムにあるアル・ヒダヤ・イスラム寄宿舎学校で教鞭を執るカルティーニ・パンガビアン(Kartini Panggabean)(中央上)彼女と夫の元過激派伝道師のカーユル・ガザリ(Khairul Ghazali)は、父親が襲撃で死亡したり、テロ犯罪で投獄された
過激派の子供たちのための学校を設立した。AP 通信

「そんな主張はナンセンスだし、そもそも ISISの支持者たちはジハードについて何も知らない。だから違う考えを持つ者を尊重することも出来ないんだ」と彼は付け加えた。「私はアフガニスタン帰りだ。ジハードを実際に経験してきたんだ。イデオロギー的信条の違う他の派閥とも緊密に協力した。ロシア軍をイスラムの土地から追放したときは、みんなが一致団結したんだ」 

そういった彼の ISIS への反感を、インドネシア当局は ISIS の影響力を阻止するための道具として使った。テレビを含む多くのメディアに彼は登場した。 

私はテレビで話している彼を見て、彼が ISIS の危険な思想を国民に知らしめたいのだとすぐに悟った。ファリヒンは、ISIS のような残虐な組織はイスラムではないと勇敢に言い放った。 

ファリヒンは、ISIS の洗練されたプロパガンダに対抗しうる有力な提言者となれたのだろうか? 

実際には、彼のテレビ出演は完璧とは言えなかった。例えば、彼は自分のアフガニスタン帰還兵として過去を英雄的で輝かしいものにした。その結果、彼は ISIS の偽善を体系的に批判するための簡明な議論には十分な時間を取ることが出来なかった。例えば、ISIS はそのリクルートの際に、目的の為に死ねば殉教者となれる。でなければ新しい秩序の英雄になれるという「損のない」生き方であるという嘘を強調している。これは、私のほうが上手く話すことができる。ファリヒンのような元テロリストを、テロリストたちのコミュニティー内での更生を可能にする仲介者として活用するのだ。 

彼らの内面を変化させる事が出来れば、それは死よりもずっと強力な影響となる。それは彼らが殉教者になるのを防ぐとともに、殉死という強いインパクトによって誰かが影響を受けまた同じ道を選択するのも妨ぐ事が出来る。過激派ネットワークと決別した彼らのパーソナルストーリーは、有望な人材をリクルートするために美化されたジハード運動の虚偽を暴くだろう。

しかし私は、過激派の台頭を抑止する対策として元テロリストを利用する事にはいくつかの課題があると思っている。ストーリーの信憑性は必ず担保する必要があるし、彼らがメディアで必要以上にもてはやされるのも危険だ。また当人たちがもう二度と暴力に走らない事も見届けなければならない。例えば、アブ・トルットとアブドラ・スナタは、インドネシア警察の「協力者」と信じられていたにもかかわらず、釈放直後の 2009 年、アチェ軍に参加した。

2018  年 2 月にインドネシアのジャカルタで行われた元過激派と犠牲者の集会で、元イスラム主義者のムフタール・デン・ラウ(Mukhtar Daeng Lau)が登場するビデオ・プレゼンテーション。AP 通信

そのような事実を考慮し、私はイデオロギーよりも人間性の観点からテロリストの更生に取り組むべきだと思い、元テロリストたちによるコミュニケーションスキル・ワークショップを開催することにした。

ファリヒンのような多くの聖戦士にとっては、イスラム思想がジハード主義への入り口ではない。彼らの多くは、実は宗教について何も知らない。単に仲間の誘いだったり、あるいは軍事的な要素に対するちょっとした憧れのような気持ちから、彼らはテロ集団に足を踏み入れる。そして集団に入った後、その活動を正当化するためにイデオロギーを持ち出すのである。 

コミュニケーション・ワークショップ 

2018 年の 8 月、私は YPP チームと共に、10 人の元テロリストを集めて 20 人のウスタッド(師匠)または教師(大学教授とイスラム教徒の学者)によるコミュニケーショントレーニングを実施した。 

元テロリストたちは 4 世代の代表者であった。その中には 1980 年代にアフガニスタンでのソビエトとの戦いにおいて、米国がバックアップしたムジャヘディーンの参加者や、1990 年代にフィリピン
でのイスラム支配を企てたグループのメンバーたち、インドネシアのイスラム教・キリスト教紛争に関わった6人の退役軍人もいた。そして最も若い世代として、20 人以上の親族とともに ISIS に参加するためにシリアに渡った 19 歳の少女。 

元テロリストたちとウスタッドたちは、それぞれ「天使」と「人間」という役名を与えられ、天使は人間に対して、相手を喜ばせるような言葉を掛けたり、またビュッフェから食事を取ってきてあげたりする。私はこの社会的交流を明確な意図を持って設定した。最初はごく小さな親切心から始まり、それがやがて大きな変化につながると信じていたからだ。

さらに、新しいメディアを使用して世界中でリクルートを行う過激派の現代的手法を踏まえ、デジタルリテラシーツールも導入されはじめた。 

ISIS の影響は、シリアのラッカにある本社が崩壊して以来減少している。にも関わらず、ラカインやミャンマー、ウイグル族の迫害など、イスラム教徒が関与する国際人道問題は、インドネシアでのネットワークを復活のために、武装勢力が容易に利用できる。

新しいメディアが、リクルートのパターンに変化をもたらしている。旧パターンでは、オフライン、つまり、宗教活動の場や学校、友人などを通じて行われていた。新しいパターンでは、オンライン、あるいはオフラインとオンラインを組み合わせて行われる。

テロ犠牲者会議に出席する政府関係者、元戦闘員、テロ攻撃の生存者 AP 通信

私は、キリスト教徒の友人で、広報とデジタル・ブランディングのエキスパートであるサハラ・パンジャイタン(Sahala Panjaitan)の協力のもと、オンライン広報における成功のヒントについて学んだ。
テロリストはビジネスマンと共通点が多いので、この試みは役に立った。ビジネス社会と同じように、テロリストたちの中にも、リスクを好むもの、仲間を重視するもの、大袈裟なストーリーを語るもの、またカリスマ性を持つ者もいる。

Facebook の過激派対策プロジェクトのスペシャリスト、ガルナッズ・バイグ(Gullnaz Baig)氏は、Facebook でのコンテンツ共有ポリシーについて話すためにシンガポールから私を訪ねて来てくれた。また、私はシンガポールの人道支援活動家であるハッサン・アフマド(Hassan Ahmad)を招待し、彼のアフガニスタン、イエメン、日本でのワークを紹介し、元テロリストの支援方法について話し合った。 

ワークショップ参加者は、www.ruangobrol.id というコミュニティウェブサイトを通じて交流した。このウェブサイトは、参加者がそれぞれのストーリーを共有するためのオンラインプラットフォーム
である。このワークショップの卒業生は、現在もWhatsApp グループを通じてつながっている。 

このウェブサイトを持続するため、私はこのプロジェクトを社会的企業に発展させ、PT Kreasi Prasasti Perdamaian という新しい会社を設立した。現在、この会社は、映画制作と出版という二つの主な活動に焦点を当てている。私はストーリーの信憑性を重視するためにドキュメンタリーというスタイルを選んだ。映画はまた、同じようなトピックの本の出版にリンクさせている。フィルムと本が完成したら、一連のフィルム上映会や共有セッションを行うことで、過激派の抑制に貢献できる。 

対過激主義キャンペーンに映画を使うのは私にとって新しいアプローチではない。私はすでに3つのドキュメンタリー映画を制作している。

監獄と楽園(Prison and Paradise)は、日本映画監督協会賞を受賞した。この映画は最初の 3 人のバリ島爆破犯とその家族のインタビューを特集したもので、国内外で上映されている。

ジハド・セルフィー(Jighad Selfie)は、すでに国内外で 400 回以上上映されている。両親との関係を重視して戦いを放棄する決心をしたISIS の戦闘員、アクバル・モラーナ(Akbar Malana)の人生を扱ったものだ。インドネシアの外務大臣は、この映画をインドネシアのディアスポラ(離散ユダヤ人問題)の対策として利用している。

ザ・ブリッジ (The Bride) は、ソーシャルメディアで愛を求めるインドネシアの女性移民 3 人の物語で、特にインドネシア移民労働者のオンラインを通じた過激思想への傾倒の対策として制作された。

現在は、Seeking the ImamRaqqa and Back というドキュメンタリー映画を制作している。この映画では、家族と一緒に ISIS に参加するためにシリアへ渡航した 19 歳の少女の生活を追っている。  

2019 年のプロジェクトでは、Cubs of Caliphate というドキュメンタリー映画の企画書も作成する予定である。この映画では ISIS にリクルートされた子供たちの生活を追う。 

更生の支援

有罪判決を受けたテロリストの一部は最終的に釈放される。彼らには未来の展望が必要だ。それは彼ら自身のためだけでなく、家族(特に妻や子供)にとっても、社会にとっても必要である。そのため政府と社会は、再犯の可能性を減らすために、釈放後の雇用と生活選択のために、彼らの職業訓練に積極的に投資を行う必要がある。元テロリストの物語は過激主義対策 (CVE) にも使用することができる。CVE は「キャッチ・オア・キル」アプローチに替わるものではないが、過激化のプロセスを止めるための体系的な社会的介入を求め、潜在的なテロリストの卵が実際に暴力に走ることを抑止し、また逮捕されたテロリストの更生を助けることを目標とする。すなわち、CVE は予防的対策である。  

暴力を抑止し、過激なイデオロギーを止めることは、更生プログラムの原則の維持にも役立つ。これらは、多次元的なアプローチを通じてのみ実行できる。更生の目標を完全に達成するためには、精神的・心理的健康に焦点を当てるだけでなく、コミュニティとの関係や、経済的、社会的な意味での復帰も考慮する必要がある。

これらのピースはすべて相互につながっているからだ。更生をこれら全体から考えることで、復帰の試みが失敗する可能性はより低くなる。


推奨される指針

過激派対策のプログラムを実施するために、ドキュメンタリー映画、書籍、漫画、コミュニティウェブサイトなどの大衆文化を利用し、オンラインおよびオフラインスペースに若者を取り込み、過激化を抑止する。さまざまなメディアを使用することは、安全な環境でデリケートな問題を話し合うのに効果的である。

過激派対策 (CVE) では、「イスラムは平和の宗教」、「テロリズムはイスラムではない」などといった一般的なスローガンだけでは不十分である。コミュニティレベルの活動、対人コミュニケーション、YouTube やFacebook、Twitter、Instagram などのインタラクティブメディアの役割も期待できる。 

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